2014年5月アーカイブ

今回は宇藤さんから、現代版「享保の大飢饉」への対策、についてお話していただきます。

「享保の大飢饉」を乗り切ることができた農民と、餓死した農民は、いったいどこに違いがあったのか?赤字国債を大量発行し、当時の幕府と同様、財政赤字を抱え、大増税が行われる現在の日本では、どうのような対策がとれるのか?

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前回に続き、高橋さんから「古代日本の戦略」という題で、古墳時代の日本についてお話しいただきます。

220px-NintokuTomb.jpgのサムネール画像一説によると日本の巨大古墳は、始皇帝陵を造った一族の技術により、作られたものだといわれています。なぜ彼らは日本にやって来たのか?何の為に古墳は作られたのか?古代日本のミステリーを解説します。

今回は宇藤さんから「大阪の陣 真田幸村」をテーマに、今と昔の日本についてお話していただきます。

大阪の陣に敗れた雪村と、勝利した家康、二人の勝敗を分けた「失敗力」とは!?

今も昔も繰り返される日本人の失敗の教訓をこちらで詳しく紹介!

「シーレーン」護衛の失敗 「敵を知らず、己を知らず」 「エレクトロニクスが戦を制す」 「責任なき戦場」 「踏みにじられた南の島」

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預金封鎖 X DAY

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今回は松浦さんから、「預金封鎖 X DAY」についてお話していただきます。

Q 先月、日曜映画劇場で放送された「相棒 X DAY」という映画では、意図的に銀行のシステムに障害を発生させて、ATMからお金を引き出せない状態を度々起こし、預金封鎖の下準備が行われていました。これは、近い将来、実際に預金封鎖が行われるという、リーク情報を元に作られたという噂があります。現実にも銀行のシステム障害が時々起こっています。実際に預金封鎖が行われるような事態になった場合、私達はどうすればいいのでしょうか?

Q 預金封鎖がチャンスとはどういうことでしょうか?

Q 認識を変えて、先を見越して行動
すれば、チャンスが訪れるというのは分かりました。では、松浦さんが今まで、先を見越して行動して来た具体例などありますか?

Q 原発の危険性を事前に予想して、対策をとっていたという事ですね。それでは、松浦さんが「預金封鎖 X DAY」に備えるとしたら、どのような対応をしますか?

Q 船の免許や無線の免許がどうして「預金封鎖 X DAY」への対策になるのでしょうか?

Q それでは、「預金封鎖 X DAY」に備えるには、松浦さんのように船や無線の免許を取得すればいいわけですか?

Q 政治が有望だということは分かりました。では、政治家になるための準備としてはどのようなものがありますか?

先を見越して準備する事が重要なのですね。本日は松浦さんから「預金封鎖 X DAY」について、お話して頂きました。

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古代日本の戦略

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今回は高橋さんから「古代日本の戦略」という題で、古墳時代の日本についてお話しいただきます。

4世紀の日本は、おそらくヤマト王権が成立してゆく過程にあたると思われます。ですが、西暦266年に倭人が朝貢したという「晋書」の記録から、413年に倭王の使いが朝貢したという「宋書」の記録までのおよそ150年のあいだ、中国の史書に日本についての記述が見られないため、当時の日本の様子はよく分かっていません。そのため、日本におけるこの期間のことを「空白の4世紀」とも呼ばれています。そこで、古代の日本の様子と大和王権の戦略はどのようなものだったと推測されるか、今回と次回の2回に分けてお話ししたいと思います。

西暦200年頃から700年頃にかけては中世寒冷期よばれる気温の低い時代でした。気候変動期、とくに寒冷期は食糧生産が激変し、人口が流動化しやすいために、戦乱の世の中になります。この中世寒冷期のときも、ヨーロッパではゲルマン民族で知られる民族移動時代でしたし、中国では三国時代から五胡十六国時代、そして南北朝時代と続く動乱の時代でした。

そのころの日本はといいますと、いわゆる古墳時代に相当します。ですので、中世寒冷期のことを日本においては古墳寒冷期とも呼びます。古墳時代というくらいですから、この頃日本はせっせと古墳を作っていました。なぜこの時代に多くの古墳が作られていたのでしょう。まずは、それ以前の日本の状況から振り返ってみましょう。

現在の日本人の祖先は、最初に日本列島に定住した縄文人に加え、大陸や半島から、あるいは島伝い渡来したさまざまな人種民族が元になっていると考えられます。日本に大きな生産革命をもたらしたと考えられる水田による米の栽培技術は、縄文後期に長江下流から伝わったと考えられていまして、つまり、長江下流域と日本、特に九州との繋がりは紀元前1500年頃からあったと思われます。

中国には「倭人は呉の太伯の子孫」という話しが伝わっています。この場合の「呉」は三国時代の呉ではなく、「呉越同舟」の言葉で有名な春秋時代の呉のことで、周王室の末裔にあたります。この呉は、先ほどの越に滅ぼされたとされますが、この時、多くの呉の人々が九州に渡ったというのです。

春秋時代の思想家である、あの孔子も、戦乱の世の中で道徳が受け入れられないことを嘆き、「倭人は天性柔順なので、海を渡れるのなら倭国に住みたい」といったと言われます。このようなことから、すでに紀元前から日本列島の存在は大陸に知られていて、大陸からの移住先、避難先になっていたものと思われます。

時代は下って、三国時代の魏の出来事を記した「魏志」には多くの分量をさいて、倭人について記されています。有名な「魏志倭人伝」ですね。その中に、長く戦乱があったが卑弥呼という女王を共立して混乱を治めたという記述があります。この戦乱のことを「倭国大乱」といい、およそ西暦150年~180年頃の出来事ではないか推測されています。

しかし、日本最初の歴史書でもある古事記や日本書紀に、この大乱に相当する記述ははみられません。これは中国に伝わった大乱があった地域と、記紀を編纂した大和王権の地域が離れていると考えるのが合理的です。つまり、邪馬台国のある九州では大乱があり、奈良にあるヤマト王権は無関係だったと考えると辻褄があう、ということです。

ということは、古事記や日本書紀の記述から考えれば、倭国大乱以前に、今の天皇家の祖先である高天原一族は宮崎から奈良に移住したのではないかと考えられます。この大移住こそが、いわゆる「神武東征」だったのではないでしょうか。

実は、最近の地層調査で、紀元前後に四国南岸を巨大津波が襲ったと思われる痕跡が発見されており、その規模は津波の高さで40~65メートルだったと推定されます。東日本大震災の津波が10~20メートル、場所によって40メートルだったことを考えると、とんでもない規模の巨大津波だったと思われます。

四国南岸がそうなのですから、高天原一族の根拠地であったと思われる九州東岸も同様だったことでしょう。おそらくこの地震と津波で甚大な被害を受けた高天原一族は、災害に強い安全な土地を求めて、奈良盆地へ移住することを決意したのではないかと想像したします。

しかしすでに奈良には三輪の大物主とか長髄彦といった地元豪族がいましたから、それら豪族を攻略しなくてはなりません。すでに甚大な被害を受けていた高天原一族は、長期遠征を行うには十分な兵力ではなかったでしょう。失敗すれば他の九州豪族に攻められ一族全滅ということになるでしょうから、乾坤一擲の遠征軍だったと考えられます。

高天原一族はスサノオの時代に出雲と姻戚同盟を結び、また、北九州から瀬戸内海の海の民と協力関係を築いていたものと思われます。神武は畿内攻略にあたって、北九州や出雲の同盟軍と合流し、瀬戸内海を東に向かったのだと思います。途中、宿営や補給が必要ですから、安芸や吉備に協力してくれる同盟勢力があったと考えるのが妥当です。

神武遠征軍は大阪に上陸し奈良へと侵攻しますが、地元豪族連合の激しい抵抗にあい、神武は兄を失います。天然の要害である奈良を攻略するのは容易ではありません。そこで神武遠征軍は海路紀伊半島を迂回して熊野に上陸、地元の協力者の案内を得て、紀伊山地を越え、背後から奈良盆地に攻め入りました。ハンニバルのアルプス越えのようなものですね。

それまで大阪方面で敵と対峙していたと思っていた三輪の大物主はいきなり背後から本拠地を占領され、大いに困ってしまいます。しかし、兵力の消耗も大きい神武遠征軍はそのまま押し切れる力も無く、両軍は膠着状態となります。そこで講和交渉のすえ、神武は三輪の大物主の娘をめとり姻戚同盟を結んで手打ちということにしてしまいます。

おそらく奈良の豪族勢力も内部の結束が強かったわけではないのでしょう。神武遠征軍と戦っていたと思っていた長髄彦は、三輪の大物主に裏切られ、訳も分からないまま神武三輪連合に撃滅されてしまいます。こうして三輪と共に畿内を掌握した神武によって、倭王権(畿内ヤマト)が誕生します。

この後は論功行賞と体制づくりですが、宮崎から呼び寄せた高天原系、姻戚であり同盟軍の出雲系、地元の姻戚である三輪系のなど、報償と領地配分は揉めたことでしょう。やはり地元の姻戚である三輪系を大事にしないわけにはいかないでしょうから、奈良は三輪系に、高天原系は伊勢に、出雲系は熊野にと配置したのではないでしょうか。このような中での体制固めの時代にあたるのが欠史八代です。

このような神武東征から畿内ヤマトの成立までが、紀元後から倭国大乱までの2世紀前半に起こったのではないでしょうか。一方、高天原一族の移住でパワーバランスが崩れた九州の地勢は流動化し紛争が起きやすくなり、これが倭国大乱の引き金になったとしても不思議ではありません。

まとめますと、神武天皇の戦略は気候変動や地殻変動の時期に、リスクの少ない地域を確保する。ということだ。と言えると思います。次回は、古代大和王権がどのような戦略で大陸の動乱に対処していたかについてお話ししたいと思います。

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