フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ

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今回は宇藤さんから、幕末から明治にかけて活躍した「芸者」についてお話していただきます。

幕末から明治にかけての世界では、日本は「フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ」と云われており、実は、昔から日本女性、特に「芸者」は強く印象に残っていたようです。今回は「女子力」の元祖といえる「芸者」についてご紹介いたします。

1月25日に放送しました、「明治政府の失敗」の時にお話した内容と関連してくるのですが、江戸時代初期までの外交交渉の仕方は、例えば、秀吉の朝鮮出兵時での明朝と講和した際は、当時巨大な建物であった大阪城で、相手の使者を圧倒させてから、交渉に挑むというスタイルでした。しかし、薩摩や長州といった地方人が主体となった明治政府は、そんな伝統的な交渉術を全く持ち合わせておりませんでした。

そこで、彼らは幕末で政策会議を花街や、料亭で行っていた延長線上で、欧米社会と同様の社交場「鹿鳴館」を建築し、そこでダンスパーティーを行って、欧米社会と同じであることを誇示しようとしましたが欧米各国からは猿真似として馬鹿にされ、全く成果をあげることはできませんでした。そして、その当時の日本では、鹿鳴館でまともに外国人とお話したり、ダンスを踊れたのは「芸者出身の女性」しか居なかったため、外国人の中で「ゲイシャ」が印象に残ったのではないかと考えられます。

これと関連するのですが、伊藤博文、陸奥宗光をはじめ幕末の志士で、後に明治の元勲となった人達は、大概芸者出身の女性を婦人としています。幕末の志士達が女性との出会いの場が、花街の芸者くらいしか居なかったということもありますが、芸者は、当時の日本国内で、非常に優秀な女性であったためです。

芸者は、一人前になるには舞いや三味線などの芸事を極める必要がある他、満足のいくおもてなしをするために、お客さんの仕草一つから先回りして予め対応したり、他のお客さんには来客者や内容を秘密にする気配りも求められ、しかもその実力が厳しく評価されます。また、幕末では各藩が花街で毎日のように当時最高レベルの政治、経済、金融、社会情勢について密談を行っていましたので、芸者は、若いうちからふすま越しで、毎日レベルが高く密度の濃い勉強をしていたことになります。

RyokoMutsu.jpg初代内閣総理大臣、伊藤博文の妻、伊藤梅子は、元々文字もロクにかけなかったのですが、高い教養が求められる書道、俳句、囲碁をマスターした他、英語や英語圏の文化も津田梅子から学び、そして、「鹿鳴館」で各国の大使をまともに接待できるよう、社交ダンスも学んで、他の政府高官に指導するレベルにまで至ったと云われています。

外務大臣を務め、不平等条約撤廃に尽力した陸奥宗光の妻・陸奥亮子は、外遊中の夫から、新聞を毎日、隅から隅まで読み、武家社会の歴史書である日本外史を読破し、英語をマスターするよう命ぜられ、彼女はそれに応えました。その後、駐米公使になった宗光と一緒に渡米し、現地では教養、美貌、話術によって第一等の貴婦人と謳われるなど高い評判で、日本の不平等条約の解消の一助となりました。

現代でも身につけることが大変困難なハイレベルの内容を、両名とも身につけることが出来たのは、若い頃の芸者時代に一芸を磨く訓練を、みっちりと行ったために他なりません。今は、幕末期と同等以上の激動の世の中となっています。こうした中で、若い女性が世界に通用するレベルの「女子力」を磨き、生き抜く秘訣が、幕末から明治にかけて活躍しました「芸者」の中にあるのではないかと思います。


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