非常事態でのリーダーの行動

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今回は、宇藤さんから「非常事態でのリーダーの行動」についてお話していただきます。

先月2月中旬は、普段雪が降らない関東で記録的な大雪となり、特に山梨県では全域が雪で封鎖されるなど、まさに非常事態といって良い状況でした。こういった状況下では、リーダーの決断と行動が最も問われます。除雪車を派遣する決定をした新潟県知事がいた一方で、被災者が居るにも関わらずソチ五輪へ向った東京都知事、市町村の報告要請を後回しにして初動対応が遅れた埼玉県知事、そして非常事態に伴う会議の召集を行わず、支持者と天ぷら会食を行った首相といった具合に、非常事態でのリーダーの対応の差がここまで違うのかということを、特に豪雪に見舞われた地域の皆様は思い知らされたのではないでしょうか。この、非常事態での行動結果が反映された例として、戦国時代・本能寺の変の平定後に行われた、「清洲会議」をご紹介します。

戦国時代後半、信長は天下統一を目前にして、明智光秀の謀反による本能寺の変で、信長とその嫡男信忠が討ち死にする非常事態が発生し、その敵を撃つために秀吉が「中国大返し」で急遽戻り、謀反人である明智光秀を討ち取りました。信長とその嫡男の両名が死去するという一大事が発生したため、織田家の跡目相続と領地再配分を急ぎ決める必要がありました。清洲会議は、織田家筆頭家老の柴田勝家が織田家の跡目を決める目的で招集したのですが、織田家の一族は一切呼ばれず、実力者の家臣4人、柴田勝家、羽柴秀吉のほか、丹羽長秀、池田恒興の4人だけで行われました。

350px-Toyotomi_hideyoshi5.jpg最大の争点は織田家の跡目を誰にするかということであり、柴田勝家が現時点で優秀な三男信孝を推した一方、秀吉は、血筋を通す意味での嫡男信忠の子、三法師を推し、最終的に秀吉の言い分が個の会議で採用され、この会議を期に秀吉が信長の事実上の後継者の地位につく事になりました。

柴田は古くから織田家に仕え、数々の武勲を挙げて筆頭家老の座に有ったものの、謀反による主君の死亡という非常事態の時に、座して動かなかったことです。一方、秀吉は主君が謀反によって殺された場合は謀反人を討って忠義を全うするという、当時の武士として最も重要な価値観に基づき行動し、戦果を出したことです。また、会議に参加した他の有力家臣である、丹羽や池田は、謀反人である明智を討伐の意思は有ったものの、明智に対抗できるだけの兵力は動員できず、秀吉の来援を待つしかなかった状況でしたので、秀吉を支持せざるを得なかった事情もあります。そして丹羽は会議の席で、主君の死亡にも関わらず討伐の兵を挙げなかった柴田に対し批判を行い、会議の流れを決定付けました。

ここで私は注目したいのは丹羽の行動と、柴田のその後だと思っています。実は丹羽長秀は、元々秀吉の上司で織田家では柴田勝家に次ぐ地位を持っていたのですが、本能寺の変以降の一連の対応で、秀吉の能力が自身よりも上であることを認め、以後は秀吉の配下として行動しました。そして、丹羽家はかつて配下であった秀吉の下につくという決断と行動をした結果、激動の戦国時代を生き延び、現在に至るまで家系を保っています。一方、柴田勝家は、自分こそが筆頭家老であるという意識から抜け出せず、最終的に秀吉と対立して一族は滅亡の憂き目にあいました。2月にも放送しましたように、今年は甲午の年ですので、先日の大雪のように従来ではありえない非常事態が突然発生する年です。非常事態の時に、最も正しい行動をしたリーダーをいち早く見抜き、支持を表明するかどうかが、私たち一般人が今後の激動する日本を生き抜く一つの重要な鍵だと思います。


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